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珍島イヤギ・・・イヤギってなあに?

珍島イヤギ・・・イヤギってなあに?

ケイコの紹介

秋田犬と珍島犬、日本、韓国にルーツ [幸せ運ぶ交流の礎]
(2002年9月9日朝日新聞 夕刊「生き物・人・記・考」)


朝起きて、戸を開けると、真っ白なペクが庭にいる。

 「おはよう」と声をかけると、「ワン」と返ってくる。待っていたかのように、必ず姿勢を正している。

 「今日も元気ね」。滝口恵子さん(46)の一日が始まる。

 ここは、韓国の珍島(チン・ド)。朝鮮半島の南西端にある。天然記念物の珍島犬で知られ、ペクもそうだ。耳が立ち、顔は三角。飼い主に忠実なことも特徴だ。

 ペクは98年8月に生まれた。その前後から、恵子さんには「幸運」が続いている。

 夫の李吉三(イ・キル・サム)さん(51)は19歳のときの事故がもとで、左半身が少し不自由だ。障害者自立促進制度の融資を受けて95年、珍島犬を育て増やす仕事を始めた。

 予防注射、掃除、健康管理……。意外に体を使うため、廃業した。ペクが1歳の時だった。いま、犬の価格が暴落している。「早めにやめて損害を免れた」と吉三さん。

 結婚したのは、85年10月。ソウル近郊で暮らした後、91年に吉三さんの故郷、珍島に来た。東側の小島との間に年に数回、道ができる。潮の干満がもたらす「海割れ」だ。

 96年、天童よしみが歌う「珍島物語」がヒットして日本からの観光客が急増した。珍島郡庁の職員に日本語を教えていた縁で、文化観光課を手伝う臨時職員になった。ペクが生まれる前の年だった。

 99年、ペクが生まれた翌年、思わぬ客が来た。秋田県田沢湖町のわらび座からだった。各地に残る民俗芸能を調べて劇にする集団だ。その調査を担当する茶谷十六さん(61)が、民俗芸能が盛んな全羅南道の芸能大会を取材に来た。

 朴東完(パク・トン・ワン)課長(56)らと案内し、恵子さんは通訳もした。夕食で身の上話になった。山梨県富士吉田市の出身。20年前、友人と訪れたソウルで夫に出会い、誠実な人柄にひかれた。両親には猛反対され、勘当されたまま韓国に来た。

 「よし、わかった」。アルコールも入っていた茶谷さんは、「秋田には、娘の嫁入りで父親が歌って送り出す歌がある。お父さんも胸の内では祝福していたはず。その代役をしよう」と歌い始めた。

 ♪蝶(ちょう)よ花よと育てた娘、きょうは晴れてのお嫁入り…

 初めは笑って聞いていた。

 ♪今度くる時は孫連れて…

 ここで泣き出してしまった。孫を見せに行く機会もないまま父親は亡くなっていた。子供は2人。国籍も韓国にかえた。ここ数年は幸せ続き。最初は苦労も多かった……。様々な思いがこみ上げた。

 この一件以来、茶谷さんから頼まれると、何でも手伝った。取材資料の翻訳、解説……。今年4月、秋田県から茶谷さんら21人が親善旅行に来た。光州市の宿まで、朴課長と訪ねたら、21人は楽しい提案をもってきていた。

 秋田には秋田犬がいる。珍島犬と顔立ちや体形、性質などが酷似する。ルーツが近いという学説もある。どちらも国指定の天然記念物。犬を仲立ちに地域交流しましょう。

 大館市にある秋田犬保存会が来春開く全国品評会に招請状を出し、その訪問を第一段階にして徐々に深めていく道筋ができるまで煮詰まってきた。この間の手紙や電話を翻訳、通訳しているのが恵子さんだ。朴課長は「彼女がいなければここまで具体化しなかった」。茶谷さんも「交流に欠かせない礎の役です」。

 犬の飼育を廃業した時、顔立ちがいい1匹を残していた。それがペクだった。 去年10月には正職員にもなれた。
「ほんとにいいことばかり。私には幸運の犬なんです」

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<A記者との出会い>
毎年恒例、役場の職員総出で明け方6時に海岸のそうじに出かけた。「神秘の海割れイベント」には韓国はもちろん海外からも、すごい観光客が訪問する。観光客が捨てていくゴミは、まさに山になる。
公務員は楽な職業だ!なんて誰がいったのか知らないが、とんでもない話しだ。
台風が来たら風で倒れた稲を起こしに、泥の田んぼを這いずりまわる。イベントがある前後は、国道周囲のゴミを集めて歩く。この時も、観光客が座った観覧席に酒やビールの空き缶、残飯がいっぱいだった。観光課のそうじ分担は、この観覧席である。何しろ5000人が座れるので範囲が広い。

加えて舞台の裏方で動く観光課の職員の苦労は並大抵ではない。知的能力も必要だが強靭な肉体も必須である。
内輪の話しはこれくらいにしよう・・

どうも日本人らしい!!ので声をかけたのが偶然にも朝日新聞のA記者だった。朝の海割れをビデオ撮影しておられた。
そして話しをしながら解った。
数日前、観光課に国際電話でお宿の紹介をお願いされたが、それがA記者だった。ご自分の職業を明されなかったので普通の会社員と思っていた。
簡単にあいさつを交し、私の紹介をしたら後に珍島まで取材に来られた。

真夏のさ中、8月にわが家の庭で撮った写真はフイルム何個写しただろう。汗がシタタリ落ち、土からの熱気は息がつまった。新聞に出る写真はこんなして撮るのか!そして知れば知るほど謙虚な方であることが感じられた。

人との出会いと不思議なものだ。私が山梨の片田舎で機織りしながら生きていたら感じられない、知らないままで一生を終えていただろう。

珍島とは「珍しい」「島」と書く。たしかに珍しいものがいっぱいだ。
その代表的なものが神秘の海割れだろうが・・珍島の魅力は、それだけでない。それを日本の方々に知ってもらうためより努力を重ねたい。


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珍島に鳴り響く「富士山アリラン」

碧波の青い海よ、お前は輝かしい歴史を知っている・・・
全羅南道、珍島郡庁の文化観光課で5年目、観光案内をしているヘジャ(ケイコ)さんの口から、李忠武公(李舜臣将軍)の戦捷碑に刻まれた碑文の内容が流れる。しかし何となく発音が・・・そうだヘジャさんは元日本人!17年前に韓国へ来た。田舎は富士山が見渡せる日本の中部、山梨県だ。4人兄弟の長女として、ごく平凡な家庭で育った。そんな彼女がはるか遠い珍島に流れついたいきさつとは・・・

1982年にヘジャさんは、友人に誘われ韓国旅行をした。韓国語の勉強をかねて数日滞在したソウルで、現在の夫である李吉三さんに出会う。その後3年間手紙のやり取りをし、ついに85年結婚にゴールインした。見ず知らずの土地、左半身の不自由な男性と一生を共にする!という娘を両親は大反対したが、ヘジャさんは全てを捨て李さんと共に京畿道の九里市で新婚生活をスタートした。

現在の職場である珍島郡庁には「珍島物語」のヒットと韓国映画の「西の丘を越えて(西便制)」で日本に珍島アリランが紹介されたことから、日本の観光客が急増したためである。郡庁は職員に日本語を教えたことのあるヘジャさんに、働いてくれるよう勧めた。ヘジャさんは高麗の三別抄、李舜臣将軍、丁酉再乱(慶長の役)など珍島の歴史に詳しい。だが一番シンドイのは李舜臣将軍戦捷碑の前で、韓国人に丁酉再乱の内容を説明するときだ。「あの憎き日本人が丁酉年に攻めてきて・・・すると韓国人は、みんな苦笑いするのだそうだ。

最近、珍島アリランを現地で聞こうと日本人が訪れる。だが拍子が合わない。それもそのはず日本歌謡はほとんど2拍子、アリランは3拍子だからだ。ヘジャさんは今日も心の中で、富士山の下で一人住まいの母を慕いつつ「恨」と「興」の混じり合った珍島アリランを歌っている。

ー2002年11月18日 スポーツソウル新聞よりー

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月刊 珍島の人達  「今月のこの人」 2004年 1月号

思いがけず2003年度、韓国観光公社と京郷新聞社が主催する「美しい観光韓国をつくる人達」のベスト10を受賞し、ラジオインタビューとテレビ撮影の依頼を受けた。
日本の観光客を案内する様子、自宅で子供達と過ごす様子、事務所の風景・・そして次は何度か受けた質問が続く「韓国生活で一番大変だったことは・・?」ここで私は「ハアーー」とため息をつく。いくら考えても頭が軽いせいか!病的なくらい物忘れがヒドイせいか!思い付かないのである。

今までは「息子を妊娠したときつわりのせいで、主人が外から帰ると体からキムチの匂いがして、外に追い出した」なんて悪妻ぶりを発揮?したが、これも息子が大学生だから、10年どころか19年も言い続けて嫌気がさす。

今回、我が家を撮影に来た放送局は、私が珍島郡庁へ勤務する前に、韓国服の裁断をしていた当時のビデオを放送局で見てきたらしい。その時も「ヘンな日本人」として紹介されたが、小学生だった息子が立派に成長した!と他人事ながら喜んでくれた。そして息子に質問を投げかけた「お母さんが日本人で大変だって思ったことはない?」息子の答えは「大変なことより、いいことの方が多いけど? お母さんの姿が即ち日本文化だから・・それに日本文化と韓国文化を比較できるからメリットが多いよ・・」

「美しい観光韓国をつくる人達」受賞者の名簿を見て、はたして私がここに入るべき人物であろうか?不安になった。なぜならば、私が「美しい韓国をつくった」のではなく「韓国が私を美しくつくってくれたのではないか」と思うからである。
私の周囲に住む日本人は韓国語を続けるとすごく疲れる!というが、私は仕事がらそんな甘っちょろいことを言ってられない。外国に住み、その国の言葉を話すことは<私の場合、死活問題につながるから特にそうだが・・>並大抵ではない。それを乗り越える原動力は何か?というと、やはり「愛」であると考える。
韓国語の持つ「音声!」というか「響き!」というべきか解らないが、私は大好きである。なぜか理由は解らない!

遥か遠い昔、私のご先祖様がここに住んでいたのかしら?その香りが恋しくて引き付けられるからかしら・・

韓国観光公社
韓国観光公社ソウル本社にて・・・韓国服が私!左は主人、
周囲はソウルに住んでいる主人の友だち^^


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2007年9月19日 世界日報より

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しん

【海上に鳥の群れが浮かんでいる】
闇がまだ引かない夜明け、濃い海霧の間に突然一隻の船が姿を現わす。上鳥島の沖合でカモメと合流した後、黎明の中に一つ二つ姿を現わす島と島その間に消える漁船。鳥島群島の夜明けは雲林山房にかかる小痴・許錬の水墨画のように夢幻的だ。

 全南珍島、多島海海上国立公園内にある鳥島群島は親島である下鳥島を中心に154の島々で成り立っている。有人島が35島、無人島が119島だ。島が集まる位置により加沙群島、城南群島、上鳥群島、巨次群島、観梅群島、下鳥群島など鳥島6群島に分けられる。

鳥島面の面事務所がある下鳥島の魚遊浦港からトリ山展望台(210m)までは約10km、北側の上鳥島と南側の下鳥島を連結する鳥島大橋を渡れば、トリ山展望台に行くセメント舗装道路が続く。鳥島大橋は大きい船が往来出来るようアーチ型に設計された。曲線が優雅で素敵だ。特にここの日出と日没が美しく「韓国の美しい道100選」に選ばれた。

海を見下ろし、くねくねした山道を登るとトリ山展望台の下に薬水(わき水)の出る場所がある。横の小さな平地は昔海賊たちが奪った物品を隠しておいたと伝えられている所。鳥島は中国と日本、そして韓半島の南海と西海を連結する航路で、古くから多くの船が行き交う場所であった。鳥島群島がひと目で見渡せるトリ山の頂上は海賊たちが活動するのに天恵の条件を供えていたのである。

高麗時代の末から朝鮮時代の初めまで鳥島を舞台に暴れた海賊は倭寇である。日本人である筆者にとって鳥島を紹介するのに当惑せざるをえない。富士山の下で生まれ育ち韓国に嫁にきていつのまにか20年余り。珍島を紹介する観光ガイドとして観光客に李舜臣将軍の鳴梁海戦を紹介するときや鳥島の海賊の話しをする時には申し訳ない思いが先立つ。

朝鮮時代の烽火台であるトリ山頂上には丸太で作った展望台がある。ここに立つと夢を見るような「島の中の島」に向い合うことができる。見晴らし台の下は傾斜の急な原始林が広がっている。鳥たちの故郷であると同時に潮風の要所だ。風の音と鳥の声が調和し、まるで天上のコンサートを聞いているようだ。鳥島は海に浮かぶ鳥の群れのように島が多いという意味だというが、もしかしたら鳥が多くて鳥島と呼ぶのではないのだろうか。

トリ山頂上から見る鳥島面の島は観梅島を含めた147島だ。154島の中で大きい島のうしろに隠れて見えない7つの小さな島を除いた残りの島が360度パノラマで展望できる。晴れた日には観梅島の向こうに湫子島と済州島までかすかに見える。展望台の裏手にある韓国通信中継所の屋上に上ると、西の方にある島はもちろん遠く新安郡の沖合の島までひと目で見渡せる。

鳥島の美しさは韓国内より先に海外で知られた。19世紀の初め、韓国の西海岸を航海し、点々と振り撤かれた島を見つけたイギリス艦隊は上鳥島に上陸した。そして海に宝石を蒔いたようにに美しい島々の風景に感動した。彼らは自分達が通りすぎた島に一つ一つ名前をつけた。イギリスの海図には今でも下鳥島はエムホスト島、上鳥島はモントロール島、ウエピョン島はシャムロック島、ネピョン島はジストル島と記録されている。

イギリス艦隊の艦長であり旅行家だったバシル・ホールはイギリスに帰国した翌年の1816年『朝鮮西海岸及び琉球諸島発見航海記』という本を発行した。そして上鳥島で見た鳥島の展望を「この世の中の極致」と表現した。この本は『10日間の朝鮮航海記』として韓国でも出版されている。

トリ山展望台は韓国最高の日出と日没の名所だ。島をかきわけて浮び上がり、島の間に落ちる太陽は荘厳ながらもひ弱い。日の暮れる頃、空が割れたように雲の間から光の筋が流れ落ちる。海は黄金色にそして間もなく赤色に染まる。引き続き島と島の間に太陽が壮烈に散華すると待っていたように下鳥島の燈台が灯をともす。

珍島の女たちは高麗時代、三別抄軍に協力したという理由で蒙古に打たれ、李舜臣将軍の鳴梁大捷では日本軍に主人と息子を失った。彼らの悲痛窮まる恨、珍島の紅酒より赤い太陽が、椿の花のように落ちる姿を見ると胸がじいんとしてくる。私もいつのまにか「珍島の女」になったようである。

2008年6月20日 中央日報より
韓国観光公社と中央日報の合同キャンペーン第16弾
「ヨングへジャの鳥島群島」


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